「生きるのがつらい」と思えるあなたはすばらしい。~「不幸せ」を知る人だけが「幸せ」を実感できる。
「生きるのがつらい」とか「生きるのがしんどい」とか思ってしまうことを、あなたはいけないことだと感じてはいないだろうか。
朝起きて、会社に行くため身じたくをして、玄関のドアへ手をかけた途端に体が動かなくなる。
思えば小学生の頃からずっと、毎朝学校に行こうとするたびにひどい腹痛に悩まされてもいた。
浅い呼吸を繰り返しては、渦巻く思考で頭の中を真っ白にして、「早く会社に、学校に行かなきゃ」と思いロボットのようにぎこちない足取りで外へでる……
私自身、そんなしんどい朝を何度も迎えてきた。
そしてその朝をしんどいと思うこと自体が、しんどくてたまらなかった。
なぜこんなに生きていくのがつらいんだろう。
このつらさ、苦しさの正体は一体何なんだろう。
どうしたらつらさを解消できて、生きていくのが楽になるんだろう。
そんな事について、書いてみようと思う。
生きていくことのつらさの正体
「他の人から認められるように生きていけない」という孤独
古代ギリシャの哲学者、アリストテレスはこんなことを言っていた。
「人間は社会的動物である」
アリストテレスによれば、人間は、自分が自分らしくあることを目指しつつも、「善く生きること」を目指す人同士の共同体を作ることで完成に至る……という存在であるとのこと。
現代の日本社会に生きる我々は、自分らしく生きたいと願いつつも、自分らしく生きようとすると共同体からはじき出されるかもしれない、という恐れを抱えて生きている。
「自分らしく生きること」と「共同体の一員として生きること」の両立が果たしづらく感じ、それが「生きづらさ」「人生のしんどさ」と形容されるのだと、私は考える。
友達付き合い、進学、就職、結婚 → もう決まった正解はない
今の20〜30代からすると、親の背中を見るにつけ、かつて社会には「正解」があったのだと感じるものである。
男なら小、中、高校とがんばって勉強して、いい成績をとる。
その後、いい大学に行き、正社員として大手企業に就職して定年までを勤め上げる。
女なら短大や専門学校に行き、事務職のOLになって20代前半のうちに寿退社。
子供を育て上げ、専業主婦として家族のために気配りをする。
もうそんな「正解」は吹き飛ばされて跡形もないのに、実際そうして生きてきた親の背中を見てきたから、我々には実態のない呪いがかけられ続けているのだ。
友達の中で一番優秀になりなさい。
友達をたくさん作って仲良くやりなさい。
男なら強く、戦い続けろ。勝ち続けて、泣くんじゃない。
女なら優しく、何を言われても可愛く微笑んで、受け入れろ。
大手企業の正社員か公務員になり、収入を得て家庭を守りなさい。
若くて綺麗なうちにお嫁にいきなさい。
優秀であれ、社会的地位を上げろ、結婚して子供を作れ。
そうしないと、
そうでないと、
社会の一員として幸せな人生を送れない。
……
それは「日本昔ばなし」である。
例えば「結婚」に関して、2016年度の人口等基本集計結果によれば、
20代後半は、女性は未婚率が61.3%、男性は未婚率が72.7%とのこと。
https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka/kihon1/pdf/gaiyou1.pdf
20代後半の人をテキトーに10人捕まえたとしたら、そのうち6〜7人くらいは未婚なのである。
「20代前半の若いうちに結婚するのがあたり前」?
嘘じゃん!
過去の「正解」の条件に適合している人なんて、今や多数派ではないのだ。
それでも、正解側にいくことができない苦しみを抱えている圧倒的多数の「こぼれた」我々。
むしろ「こぼれる」方が「普通」なのに、そのことに納得できず、自分は仲間はずれだと思い込んでいるから苦しくなっている。
極めつけは「ネガティブなことを考えてはいけない」という自分にかけた呪い
「共同体の仲間になれない(と思い込んでいることによる)苦しみ」から逃れるために、我々は自分を突き動かす。
社会に適合するための努力として現れる場合は、
給料が低い非正規職だから、一生懸命働いて、正社員を目指そう。
もう30代も目前だから、結婚相談所に行って、パートナー探しをしよう。
そうして、しゃかりきに頑張るうちにヘトヘトに疲れ果てる。
それでも結果が出るまで続けるしかない。と苦しみながら走り続ける。
社会に適合することから逃避しようとする場合は、
心を無にして、ひたすら耐える。極力、何も考えずにひっそりと生きる。
人との関わりを断ち切る。どうせ人生は虚無だと、斜に構えて過ごす。
そうして、諦めて目を閉ざすうちに、心の中が虚しさでいっぱいになる。
それでも自分にできることはないと思っているから、ずっと苦しいまま。
これらの行動は一見、別物のように思えるが、いずれにせよ実現するのは「苦しい」という状況なので本質的には違いがない。
そして、それを引き起こす原因の部分も、同じものなのである。
「いずれにせよ苦しい」。
その原因とは、
「本当に苦しいんだ! という自分の気持ちを、中途半端に無視したまま走っていってしまったこと」である。
ネガティブな感情を抱いてもいい
抑圧するといつまでも消えない
「この苦しみを感じなくするために、努力しよう」
「この苦しみを感じなくするために、考えないようにしよう」
いずれにせよ、「苦しみが自分の中にある」ということをわかっていながら、苦しみ自体を消そうとする力を働かせている。
それは「さみしいんだよ、苦しいんだよ、つらいんだよー!」って泣いてる自分の気持ちを、あってはいけないものだと自分で否定しているということなのだ。
心の中に、泣き続けている自分がいるから、どんなに頑張っても苦しさがなくならない。
例えるなら、膝をすりむいて泣いてる子供に「ケガしないくらい強靭な肉体を手に入れろ!」とか「痛いと思わなければ痛くない!」とか怒鳴りつけてるような状況である。
そんなこと言われたって今、痛いものは痛いのに。
感情を受け入れて、そこにあることを許すこと
ケガをした子に必要なのは、
- ケガをして、痛いんだよね。ってその子の感情を認めて、寄り添ってあげる。
- 水道で傷口を綺麗に洗い、消毒液と絆創膏でケアをしてあげる。
ということである。
根本的に、生きる苦しみをなくしたいのなら、それを自分にしてあげればいいのである。
①自分が「しんどい」「苦しい」と感じている感情を、ちゃんと味わう
「自分は今、こういうことがあって、しんどいんだな。」と、転んでケガをした事実を心の中で見つめる。
「しんどいって感じてる自分も、確かにここにいるよな。」と、ケガをして痛みを感じている自分がいることを認める。
②痛みが消えるまで、辛抱強く味わいつくす=ケアしてあげる
そうして認めた時に、自分の心や体にどんな感じがあるか、じっくりと味わってみる。
頭の中がモヤモヤする? 胃にムカムカしたものがこみ上げる? 悲しさで胸が潰れそうになる?
そんな率直な感覚を、途中で否定したり克服しようとせず、ただ受け止め続けること。
じっくり時間をかけて、ちゃんと味わい尽くすことが、傷がふさがるまで絆創膏や消毒液でケアすることに相当する。
「ある」ことを知っていなければ、「ない」ことを実感できない
とはいえ、苦しいのは嫌だから、味わうとかせずそれを一刻も早くなくしたい、と思ってしまうのはわかる。
生きるのがつらいとか思いたくないし、毎日楽しく生きていきたい。
そのための手段が「消したいと思う、その感覚を味わいつくす」ということなのだと私は思う。
苦しみが自分の中に「ある」ことをちゃんと味わうから、それが「ない」状態になった時に「ない」実感を得ることができるのだ。
苦しみがあることを無視してひたすら走り続けると、「ある」とはどういう状態なのか本当にはわからないままなので、「なくなったかどうか」も自分で実感できない。
だから、克服行動も、逃避行動も、永遠に終えることができなくなる。
「生きるのがつらい」と思えるあなたは本当に素晴らしいよ。
だって、苦しみやつらさが「ある」ことに目を向ける準備がすでにできているんだから。
大丈夫、絶対に幸せになれるよ。
生きていこうね。