もののけとけもののけ

迷い走る人生 ほどほどにナイス

狂気のような自己投影ができなくなった時、以前ほどには推しを身近に感じていない自分に気づく。

 

こんばんは。犬吠埼カヤノです。

休職2か月目、おそらく今月の私の収入は

傷病手当を除き10万円前後の着地となる見込みです。

 

扶養内パートさんくらいは稼いでいるとはいえ、

別に誰かのもとに働きに行ってるわけでもないので

実質ニートみたいなもんだよな、と思っていました。

 

…ということは、

以前人生を滅ぼすレベルでハマっていた

おそ松さんをより身近なものとして

感じられるのではないか? とも。

 

 

 

おそ松さんにおける「松野一松」という男について

 

かつて一世を風靡した「おそ松くん」の

十数年後を描くというコンセプトで製作された

アニメ「おそ松さん

おそ松さん」の世界での六つ子たちは、

全員がニートで童貞という設定で、

パンチの利いたギャグアニメとして話題になっていました。

 

 

放送当時、私も見事に松沼に落ち、

松のことを考えすぎてリアルに夜も眠れない、

寝ても覚めても頭の中は松のことばかり、

食う寝る松を描く……が一日の行動のすべて、みたいな

松祭りで脳内麻薬がパーリーピーポーな時期を過ごしていました。

1か月で同人誌3冊錬成したのはいい思い出です。

 

特に私は、六つ子の中でも

「松野一松」という男に恋い焦がれていました。

別に夢女だったわけではなく、一松絡みのカップリングとかも

割と何でも雑食気味にむさぼり食らっていたのですが、

とにかく放送当時の私の脳内には、

常に紫色のパーカーを着た猫背の男が

猫じゃらしを揺らしながら居座り続けていました。

 

 

アニメ1期、2期と追いかけ、

雑誌連載の描き下ろし漫画なども手に入れて読み漁り、

ソシャゲを遊び、映画のおそ松さんを観て、

彼の過去も派生の設定も踏まえて彼の心理状態…

アニメ内で描写される行動と直接的に描かれはしない思考の

結びつきについて考えるのが大好きでした。

資料は大量にインプットしたとはいえ、

確かめようのない二次元キャラクターの心や思考について

考察を重ねているという時点でだいぶ狂気ですけれども、

それが当時の私の生きがいであり明日を生きる意味でした。

 

松野一松の繊細なところを愛していました。

おそらく彼は「いい子」でありたかったけれども、

どうしてもそうあり続けるのが息苦しくて、

あえて根暗だったり闇キャラとして振舞い続けることで

「堕落した自分」を自分の手で再定義し続け、

自分を戒めることで安堵していたんだと思います。

アニメ2期における十四松との戒め回が特に顕著ですが、

「自分は幸せになってはいけない」「自分はクズでゴミだ」

と「罰を受けて当然な自己」を定義し続け、

繊細な情緒に蓋をして守り続けているあたりが大好きでした。

 

本当は彼はただの寂しがり屋さんで、根はすごくいい子で、

でもそのことを自分で否定せずには、自分を守れないから

いつも必死なように見えていました。

 

彼の不器用さが大好きで、愛おしくて仕方なくて、

アニメ内の登場人物誰でもいいから

どうか彼の自己否定で武装した脆い心臓に

そっと寄り添ってやってくれないものかと

懇願じみた感情すら抱いていました。

 

狂気のような愛着の正体は自己投影に過ぎなかった

 

…と、

ここまでの文章を一瞬で錬成できる程度には

松野一松という男に私の人生は狂わされていたのですが、

いざ今、自分自身がニートっぽい立場になった上で

アニメの中の松野一松を眺めてみても、

放送当時ほどのえげつない愛着を感じられなくなっていたのです。

 

なぜか。

 

私の、松野一松に対する好意の正体は、

とても強い共感……というか自己投影だったのだと思います。

 

「自己否定せずには自己を守れない」

という矛盾をはらんだ情緒の嵐の中で、

這う這うの体で息をしている……

それはもとより自己肯定感の高い人々には

理解されることがない状態だと思っていましたし、

私自身、うまく言語化できていないものでした。

そんな状態を、アニメの中で描かれる

松野一松の姿を通して再確認させられるようで、

心臓に針を突き刺されるように激しい感情を引き出されて、

それゆえにどうにか、どうにか彼の命が少しでも救われてほしいと

願わずにはいられなかったんだと思います。

 

でも、私はもう自己否定しなくても、

あんまり簡単に自己が壊れない状態になってしまいました。

 

痛みがあったことは覚えています。

自分を罰しなければ息をする権利がないと思うような感覚も、

全て生々しい現実のものとして、身に覚えがあります。

でも、そこに今の私はもういないんですよね。

だから、松野一松という男の生きざまを見せつけられても、

彼の心を「妄想」という形で思いをはせて理解することはできても、

痛みを伴うほどの激しい共感は、もうできない。

 

自分で自分を推していくのが人生なのかもしれない

 

少し寂しい気もしつつ、

多分これが本当の意味で

「自分の人生の主役に、自分を据える」

という事なんじゃないかなとも思いました。

 

どこかから借りてきた誰かの上に

感情を被せて執着するのではなくて。

自分の感覚に自分で目を向けて、

自分で自分を愛し、その上で心から湧き上がる

「誰かに何か与えたい」という思いに従って

GIVEしていくということが、

人生という物語の描き方なのかなと。

 

当時の私は、

松野一松にものすごく救われていました。

今でも彼のことは大好きです。

二次元のキャラクターではありますが、

彼には本当に感謝をしています。

 

ありがとう。

私の中の感情に気づく機会をくれて。

重すぎる執着の受け皿になってくれてありがとう。

 

一松のことだけ考えて生きている間、

私の心は救われていたよ。

 

f:id:toshino_bakeinu:20191214223412p:plain

 

 

  ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村