もののけとけもののけ

迷い走る人生 ほどほどにナイス

25歳女、休職中、母親と和解する。

 

数か月ぶりに帰省した、実家の夜は冷え込んでいた。

フローリングの上で凍える足を不快に思いつつ、

私は母親に言葉をぶつけずにはいられなかった。

 

会社を休職し、

ただ絵の仕事だけを持ち帰って、

ほぼニートのような生活を送る。

胸中に不愉快なもやがかかりだし、

それが体の内側から私の首を締めあげるのに

半日もかからなかった。

 

上手く息ができなくて、

酸欠にあえぐ脳内にチカチカと眩しい光。

フラッシュバックしたのは、

私が小学3年生、8歳の時のこと。

当時テレビで放送されていた、

かわいらしいキャラクターのまねをして遊んでいたら、

父親に「年を考えて振舞いなさい」といわれた記憶だった。

 

堰を切ったように声と涙があふれ出ていた。

「歳考えろってなんだよ……8歳に言う言葉かよ。何考えりゃよかったんだよ」

 

泣き叫ぶ間にも、つらかった記憶は芋づる式に引き出される。

小学4年生の頃、母親に「あなたはハリーポッターハーマイオニーみたいになると思ってたのにな(そうはならなかったね)」と言われて根暗で挙動不審な自分を申し訳なく思ったこと。友達をたくさん作りなさいと言われて無理にみんなの所に行ったら無視されて陰口を言われるようになったこと、本心では私はほんの数人の仲いい子と一緒に物語づくりをして遊べていれば満足だと思っていたけど、それだと母親が不安そうな顔をするからそれが嫌でどうにか母親を安心させたくて取った行動だったこと。

小学5年生の頃、母とけんかした際に、父から「カヤノが大人になりなさい」と言われたこと。きちんと歯磨きをしているのに「口が臭い」と言われ続け、大学を卒業するころまで口元を手で覆い隠して話す癖が抜けなかったこと。その癖さえも、なんで顔隠すの? おかしいよ、と言われ、隠さなければ息が臭くて隠したらおかしいならどうしたらいいんだって毎日毎日ストレスで胃が痛くなっていたこと。11歳にもなってなんでファッションに興味持たないの? ってお母さんが不快そうな顔をするから全然興味のない洋服を自分で選んで持って行ったら散々ダサいとかセンスがなさすぎるとか言われて、それ以来大学を卒業するころまで自分で自分の服を選ぶのを怖いと感じていたこと。11歳にもなってシルバニアファミリーで物語を作って人形劇で遊ぶのをやめずにいたら、遊ぼうとするたびにもう赤ちゃんじゃないんだからと怒られたこと。でも結局今に至るまで物語を創作して遊ぶのはやめていないこと。

中学に入って周りが色気づきだして恋人とか作るようになって、お母さんがお気に入りのイケメンR君がいたから告白して付き合っていたこと、でも本当は気が優しくてビビリでおとなしいN君のことが気になっていたこと。私が恋人の話をするとお母さんが喜ぶから、中学から社会人になるまで恋人を絶やした期間がほぼなかったこと。

学校の成績だけはよかったから、それを両親がとても誇りに思っているのをプレッシャーだと感じていたこと。高校に入って初めて自分の心から楽しいって思える演劇部の活動に携わって、それで成績がどんどん落ちて「演劇部なんか辞めさせるぞ」と脅されたこと。私が現役で大学受験に失敗したら、両親のけんかが増えたこと。小学生の頃から高校を卒業するまで、毎日学校に行くのがつらくて、毎朝必ずおなかが痛くなっていたこと。ストレスから爪を噛んだり自分の髪を引っ張ったりする癖が出てきて、それが25歳になる今でも治っていないこと。誰かにアドバイスをされたときにそれを「受け取らない」選択をすると悲しそうなお母さんの顔がちらつくから、人に指導を受けるという状況自体を今ものすごく苦手なものだと感じていて、それによってめちゃくちゃ損をしていることを自分でも自覚しているけれど、でもどうしたって苦しいと思ってしまうこと。

そして、こういうことをお母さんは何一つ覚えていなくて、私がこういう事でつらかったと過去に何度も伝えたけど、そのたびに「なんでそれくらいのこと気にするの!?大げさにとらえすぎ!」と笑い飛ばされ忘れられて、すごく悲しかったこと。

 

「大人になる事」

「より鈍感な、一般的な感性を持つ人間として振舞う事」

 

を年齢が一桁の頃から望まれていることを、

噛み過ぎた指の先から血がにじむほど痛感しながら、

そうなれなかったことへの申し訳なさ。

今、私が私としてこうやって生きてること自体への罪悪感。

そういうものがすごく強くあるんだ、

お母さんやお父さんが望むようないい子になれなくてごめんなさい、

って気持ちがすごく強くて、

そういう気持ちを抱いた瞬間から私の時計は止まってるんだ、

だから大人になれって言われ始めた8歳の時点で、

私の時間はずっと凍り付いてるんだという話を、母親にした。

 

深い呼吸をした母は、実年齢よりも老け込んで見えた。

 

「ごめんね。でも、いい子じゃないと愛さない、なんて、最初から思ってなかったんだよそれを受け取ってもらえてなかったんだな……。」

 

そして、言葉をさらに続ける。

 

「お母さんの伝え方も悪かったね。ほんとうにごめん。でも、お父さんもお母さんもカヤノが生きて、幸せに生きていてさえくれるなら、本当にそれ以外何もいらないって、昔からずっと思ってるんだよ。カヤノにとっての幸せが何なのか、お母さんたちにはわからなかったから、お母さんたちが思う『幸せ』の道はこっちだよ! って伝えちゃってたんだけど……それがカヤノにとっては苦しかったんだね。ごめんね。」

 

不思議と前よりすんなりと、言葉が脳に通る気がした。

 

「お父さんは今、ずっとがんばって育ててきたカヤノが幸せじゃないって思いこんで、幸せにしてやれなかった自分の無力さを悔やんでショック受けてるけど……お母さんは、カヤノがしたいようにしたらいい、カヤノが幸せになれるよう、望むことをしたらいいって、本当にそう思っているよ。

 

これらの言葉を受け取って、

私の胸の中でずっと凍り付いてる、8歳の私に渡してあげた。

17年前から今に至るまで、彼女がずっと泣き叫んでいたセリフは、

こうだった。

 

「私には、私が大人っぽくできなかったり、友達と仲良くやれてないとき、お母さんは不幸に見えた。私はお母さんを幸せにしたかったのに。ごめんなさい、それができなかった、ダメな子でごめんなさい」

 

ただ、

ただ大好きなお母さんを悲しませたくなくて。

 

お母さんに幸せでいてほしくて。

悲しそうだったり不安そうな顔をしてほしくなくて。

それで私は、ずっと無理をし続けてきた。

でも、どうしても私の自我が強すぎるところがあって、

上手く無理を通せなかった。

自我が強くて、「自分」が強すぎるせいで、

「お母さんを幸せにするチャレンジ」に失敗してごめん、

と、そういうわけだ。

 

「お母さんを幸せにしてあげられなくてごめんなさい」

 

「カヤノがカヤノなりに幸せに生きてるなら、それだけでお母さんは幸せ」

 

 

すれちがい、

17年間迷子になってたパズルのピースが、

かちり、とはまった音がした。

 

 

以前書いたこの記事で言及した、

部分的な開放のされ方とはカタルシスの規模が違った。

 

toshino-bakeinu.hatenablog.com

 

より本質的で、

核心を突く、

昔の私が心の底からほしかった言葉。

すれちがってしまって、受け取れていなかった本当の言葉。

 

私は泣いて、泣きまくって、

瞼が遮光器土偶のようになるまで泣き腫らして、

それから、

もう間もなく50歳になる、母の腕に抱かれて眠った。

 

 

***

 

翌朝目覚めると、母は仕事に出た後だった。

窓を開けると、寝ぐせのついた私の髪を

透明な秋の風が撫でていった。

田舎の町を包み込む、11月の空は優しい。

 

私が小学1年生の時、

実家の庭に植えたサザンカが、

美しい花を咲かせていた。

 

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