会社にいる間、私はずっと怒りたかった。
「お前、なんか牙を抜かれた感じがするよな」
尊敬していた上司の一人に、そう言われたことがあった。
当時の私には何のことだかよくわからなかったけど、
今となっては、きっとこういうことだったんじゃないかと思う。
私はおそらく、本当はずっと怒りたかったのだと。
新卒1年目のゲームプランナー職の社員に対して、「塾」という研修が実施されたことがあった。
プランナー職入社のうち数人に対して突然実施されるそれは、ある課題に対しての分析を行い期日までに資料を仕上げてプレゼンをする、という形式で行われるものだった。
プレゼンの評価は現場のプロジェクトリーダーやディレクタークラスの企画職が行い、評価結果は全社員がアクセスできる場所へ辛辣なコメント付きで毎週更新されていた。
私もその「塾」の研修制度の中に突然インバイトされ、わけもわからず課題を進めていくことになったのだが、正直、あの場で得られたプランナー職としての学びは私にとって皆無だった。
しいて得たものを挙げるなら、1年以上昔のことであるのにこうして鮮明に思い出すことのできる憎悪と怨嗟の感情であろうか。
「役職の高いメンバーが貴重な時間を割いて君たちの課題を見てくれている。その意味を考えろ」と言われた。
しかし塾の課題は会社の利益とは関係なく、若手プランナー個々人の能力を伸ばすために実施されていたものなので、当然巻き込まれた若手も業務が終わった後の時間を使って資料を仕上げることになる。
時間を取られているのは若手だって同じだった。
上長の承諾と事前告知をもって、課題の提出を遅らせた回があった。
不足なく報連相を行ったのに、その回の私の評価にはでかでかと「提出遅れ」とだけ書かれていた。
事前に言っておきながらこの仕打ちか、と思った。
それでも、
「若手プランナーの私たちのために」わざわざ実施してもらっている制度なんだから、と思って感情を押し殺した結果、私はその塾に対しての不信感や疑念を表明することはできなかった。
ほんとはずっと、うるさいな、と思っていたのに。
「自分から役職が上のメンバーに話しかけに行って情報を得ろ」
「素直に話を聞き入れて学べ」
うるさい、全部知ったことか。
ほんとはいつだってそう叫びたくて仕方なかった。
どうして「こうなりたい」とも思えない、
憧れもしてない人の話を聞かなきゃいけないの?
そんな疑念は常にあったけれど、それと同じか、より大きい思いとして
「でも素直に会社が言うことに従って自分を変えないと認めてもらえない、評価されない、評価されない私は存在してはいけない」
って恐れがあったから、疑念にも理不尽さへの怒りにも蓋をして、心を殺して頑張っていた。
最近は
「本当の私は傲慢で、怠惰で、怒りっぽくて、頑固だけど、別にそれでもいいじゃん」
って思っている。
他人から評価されなくたって生きてていいし、幸せになっていい。
そう思えたら、恐れで蓋をしていた怒りが火鍋みたいにゴァッと吹き上がってきた。
頑固で人の話を素直に聞けない自分だって、存在していてよかった。
そういう側面を会社の都合で「悪いもの」にされて、
ありのままの私を捻じ曲げられることへの痛みと怒りがずっとあった。
無視してたけど。
明日、退職前に最後に会社に行って、保険証とかを返してくる。
新卒でこの会社に入ったからこそ、いろいろ心に向き合う機会ももらえたし、本当に一社目がここでよかったなと思っている。
怒りを封じていい人になろうとした結果、怨嗟にまみれた経験も、確かに得られた学びの一つだ。
自分の素直な気持ちを否定して、自分以外の誰かや何かのために取り繕おうとしても絶対に破綻する。
自分はどうありたいのか。どうあれば幸せなのか。
そのことを常に忘れずに考えていよう、と気づかせてもらえたのが、この会社で得られた最大の学びの一つかもしれない。
これからは、いっぱい怒って、いっぱい悲しんで、
それでいっぱい喜んで笑って生きていきたい。
誰かや何かのために、恐れを理由に自分の感情を否定したくない。
恐れと愛の二択になったとき、必ず愛を選びたい。