もののけとけもののけ

迷い走る人生 ほどほどにナイス

他人の怒りによって心を傷つけられた時の捉え方

見ず知らずの他人に「叫ばなければいけなかった」おじさん

金曜夜の渋谷を歩いていた。

道は大いに混雑していて、とても車がスムーズに通行できる状態ではなかった。
そんな中、無理やり右折して割り込んできた車にびっくりしていたら、ドアが開いて「ちんたら歩いてんじゃねえよボケが!!」と叫ばれた。

 

叫んだおじさんの顔はよく見てないけど、なんだかおじさんの声には、おじさん自身が抱える「辛さ」が滲んでいるように感じた。


怒りは、他人にぶつけると増幅する

この状況をおじさんの視点から見てみよう。
金曜夜の渋谷。人がやたらめったらあちこちではしゃいでいて、とてもじゃないが車での移動はスムーズにはいかない。けれど、おじさんには車で行かなくてはならない場所がある。焦りが苛立ちにつながり、楽しそうな人々の様子も、夏らしい熱気も、全てを負の要素として受け止めてしまい、イライラを加速させる。
自分の行動を邪魔される苛立ちは限界を超え、ついにその場にいた我々のことを怒鳴りつけてしまう。

 

…おじさんは、我々を怒鳴りつけたことで救われただろうか。
答えは確実にNOである。
考えてもみてほしい。あなたは誰かに八つ当たりした時にスッキリしたとか心が晴れたとかいうことがあるだろうか?
おそらく、そういう時は余計にイライラが増幅するか、優しい人であれば衝動的に相手を傷つけてしまった罪悪感で胸が苦しくなるだろう。
いずれにせよ、おじさんが我々を怒鳴りつけたことで得たプラスの要素は、皆無だ。

 

それでも、おじさんは我々を怒鳴りつけずにはいられなかった。
それは他ならぬおじさん自身が、苦しくて苦しくてたまらなかったからだ。
イラストにするとこんな感じである。

 

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自分の怒りで誰かを傷つけちゃう人は、 両刃のナイフに腕を貫かれて痛すぎて暴れているうちに 周りにかすり傷を負わせてるようなものである

 

自分に深く突き刺さった「不快」の刃の傷口が痛くて、その痛みから暴れたくなって暴れるが、誰かに刺さるとその分自分にも深く押し込まれて余計に苦しむ。そしてさらに痛くなり、暴れたくなる気持ちも増幅する…
完全にかわいそうなループにはまってしまっている。しかし我々には、何もすることはできない。
暴れるおじさん、近づく者をはねのけるおじさん。彼に深く突き刺さった刃を抜くことができるのは、おじさん自身の苦しみからおじさんを解放してあげられるのは、おじさん自身しかいないのだ。

 

我々が受け取ったのは、ほんの些細な切り傷だけ

一方で、とばっちりを受けた我々もいる。
しかし図から分かるように、我々はおじさんの振り回す両刃に「かすった」だけなので、唾でもつけときゃ一晩で治る程度の浅い傷しかついていない。

 

なぜ浅い傷だと言い切れるか。
それは、本当の意味で我々がおじさんとは「無関係」な個人だからだ。
おじさんに怒鳴られたことで、我々の人生になんらかの影響があるか?
おじさんが傷ついている状態を、我々はなんらかの手段で救うことができるか?
答えはどちらも、NOである。
どうしようもないし、どうにもできない。
ゆえに我々は、この傷を後生大事に抱えて生きていく義理はないのである。

 

自分にナイフを刺さないようにする為に

我々はおじさんに一切の救いの手を差し伸べることはできないが、一つだけこの出来事から学ぶことはできる。

我々自身が、「おじさん」にならないようにする、という意識を持つことだ。

自分の中に不快のナイフが生じて、それがちくちく心を刺してきたら、一度その「不快」に真正面から向き合ってみてほしい。
「私は今、イライラしている」と、自分の心の中に不快のナイフが存在していることをまず認める。そしてそのあと、「なぜ私はイライラしているの? その原因は?」と静かに心に聞いてみてほしい。
そうすれば、ナイフは執拗にあなたの心を刺すのをやめ、刺す理由を考え始めるだろう。結果、誰かにかすり傷を負わせるのも、あなた自身を傷つけるのも防ぐことができる。

 

自分の中にある不快感、苛立ち、恐れ、怒り…
そうした両刃のナイフの存在を、まず認めることによって、我々は心の痛みから初めて自由になれるのである。

 

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