もののけとけもののけ

迷い走る人生 ほどほどにナイス

陰キャは陰キャな自分を変えようとしないほうが幸せに生きれるのかもしれない

 

前回言及したタスクが完了したので、また日記を書く。

これは書いてそのまま投稿するので、26日現在の感情表明である。


toshino-bakeinu.hatenablog.com

 

「60名ほど社員を連れての、コンテンツあり、1泊2日の研修合宿の幹事」

という仕事が終わった。

正確にはまだ経費精算等の残タスクがあるのだが、

他の方に分担をお願いをしたので、私が直接対応する範囲でのToDoは一旦完了した。

 

旅行から帰ってきて参加者を解散させ、

自分は研修物品の片付けのためにオフィスに残った。

色々捨てるついでに、自分のデスクの周りも整理して、いろんなものを一緒に捨てた。

 

一年目の時、初めてチームのために作ったシールをモニタから剥がして捨てた。

一年目の時、トレーナーさんからかけてもらった言葉を書いた付箋を剥がして捨てた。

 

物を捨てるたび、海に沈むように寂しさはどんどん深くなった。

それでいて物を捨てるたび、どこか軽やかさも感じている私もいた。

寂しさに沈めば沈むだけ、魂は透明になり、何にも囚われない自由な私になっていく気がした。

 

 

合宿中、こんな一幕があった。

 

宿泊先に、大人数が入れる広い部屋があった。

夕食後、自由に使えるスペースとしてその部屋を提供したところ、

はじめに集まってきたのはエンジニアや落ち着いた性格のメンバー達だった。

皆それぞれボードゲームに興じたり、穏やかに語り合ったりして、

のほほんとした空気が流れていた。

私自身も(酒を飲まない限りは)大騒ぎをするタイプではないので、

その部屋に滞在し、同期と共にゆるいおしゃべりに花を咲かせていた。

 

日付を超えた頃、突然ドアが開け放たれ、衝撃がなだれ込んできた。

活動的なメンバーが大声で歌いながら部屋へ転がり込んできたのだった。

彼らは、おそらくそれまではカラオケをしていたのだろう。

全体的にアルコールとタバコの匂いがものすごく、

空間内の和やかさは一瞬にして爆散した。

元いた人々は蜘蛛の子を散らすように部屋を出て、

瞬く間に全員いなくなってしまった。

 

全員、ウサイン・ボルトよりも速かった。

 

笑っちゃうような陰キャ陽キャのやりとりに、世界の縮図を見た気がした。

「楽しさ」を何に感じるのかは、人によって全然違うから、

どうしても活動にかけるエネルギー量に差が出る。

差が出ると、より強い方が目立って、そっちに巻き込まれそうになってしまう。

 

しかし強い方が楽しいかどうかは、それこそ「人による」のだ。

私みたいにのんびりゆったり語らうことを楽しいと感じる人もいれば、

嵐のように酒とタバコとを吸い込んで歌に変換することに楽しさを見出す人もいる。

どちらが正しい楽しさ、ということもない。

ある行為は、人によっては楽しさであり、別の人にとってはそうではない。

ただそれだけの話。

 

だからこそ、自分が何を楽しいと感じるのかは、見失わずにいたいと改めて思った。

ブレずに持っていられれば、俊足のエンジニア達のように「楽しくない」から

逃げ出すことも、逃げた先で自分が思う「楽しい」をまた再開することもできる。

事実、そうして陽キャの襲来から逃げたメンバー達は、

逃走先で新たに陰キャの王国を建て、深夜3時頃までボドゲを楽しんでいた。

(私は途中で部屋に帰って寝た。)

 

 

捨てたシールや付箋たちを見て胸が鋭く痛むのは、

私が本当に社会人一年目の思い出達を、愛おしく思っていたという証明だろう。

それを大切に思っていた、そしてそれを失うことが悲しい。それは本当の感情だ。

ただ、透明になる情緒、解き放たれるような感覚もまた、事実だと感じている。

 

今まであった、与えられてきたものに対する愛着。

会社の中で「チームのために」という文脈で、

チームを介して与えられたり与えたりしてきた愛への執着。

それを手放し、これから自分で「自分のために」欲しいものを

選べるようになることへの期待。

これから自分の人生を、自分の足で歩んでいけるんじゃないかという感覚への好感。

 

 

私は自分の言葉が好きだ。

「意味がわからない」「伝わらない」「直したほうがいい」と

数え切れないほど言われてきた。

それでも、今まで読んできた無数の本の中から拾い集めた、

お気に入りの言葉たちを自由に編んで紡ぎ出す文は、

宝物のようにきらきら光って見えている。

 

私は自分の声も好きだ。

低くて掠れているから、ほとんどの女性歌手の曲は歌えないし、

どれだけ声を張っても「もっと大きな声で話してくださーい!」

と言われ「いや無理っす」と戸惑ってしまう。

それでも、大切な誰かと対面で話した時に、すごく落ち着くって言われたり、

ちゃんと聞いてもらえる感じがする、安心するって言ってもらえることもあった。

 

私は自分の気質も好きだ。

一つのことに集中すると他のことが見えなくなる。

細かいことに注意がいかず、結果的にあってりゃいいじゃん精神で

全部やっちゃうから、過程や所作を重視される場面では

「仕事してない」とまで評される(結果にたどり着く以前にそう判断される)。

それでも、その狂気のような集中力のおかげで、

今までたくさんの作品を作り出せてきたし、

過程を問わずに結果に結びつけていいのなら俄然張り切ってやり遂げられる。

その間は、確実に事を成している、と自分で実感できている。

 

私は、私が大好きだ。

組織の中でバリューを出すのが難しいから、

「ここにいてごめんなさい」「生きていてごめんなさい」と会社の中では

常に自分を責めてしまうし、それによって心の調子も崩してしまう。

組織の中の私は、自立してない弱い人間だ。

それでも、1人で何かを作っている時の私は、

間違いなくこの世界の中で誰よりも幸福だと感じているし、

自分の力で立ち上がり、事を成し、魂の底からの喜びを感じることができている。

 

 

強いものに巻かれていたから苦しいのだと思った。

私は強きを楽しめる陽キャではない。

それでも無理して陽キャの価値観を、自分も持とうとしていた。

当然そんなことはできないし、できない自分を責めるし、

苦しいループが回り続けていた。

 

陰キャでええやん。

陰キャな自分が、ありのままの自分が、私は本当は大好きなんだもん。

ボードゲームの「テストプレイなんてしてないよ」とかを、

少なくても大切に思える友人たちと遊びつつ暮らしたい……

 

……というか、何なら私自身はぶっちゃけゲームに混ざらなくてもいい。

私が大事に思う少しの人たちが、楽しそうに過ごしててくれる、

その傍にいることができるのなら、それだけで私は幸せなのだ。

 

再建した「陰キャの王国」でみんなが遊ぶ様子をそばで見ていた私は、間違いなく幸福だった。

 

 

週明けから、少し長いお休みをもらった。

会社のことなーんにもしなくていい。

自分を嫌いになる必要もなくなる。

陰キャな自分が、陰キャのままで生きていくことを、

無条件に自分で許せる時間を手に入れられるのだ。

 

何をしようか。私を幸福にしてやるために。

 

何でもできる気がしている。

 

  ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村